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歴史学

テロ実行犯への同情はなぜ起きるのか?...「五・一五事件」に見る、メディアが拡散した「大衆の願うヒーロー像」

2024年04月10日(水)11時05分
小山俊樹(帝京大学文学部史学科教授)

ところで事件の被告には、陸海軍の軍人のほかに民間人もいた。よく知られるように、事件に関与した民間人は最高で無期懲役の判決をうけ、内乱罪が適用された軍人(最高禁錮十五年)よりも重い結果となった。

なぜ軍人の量刑が軽くなったかといえば、そこに軍の意図があったと考える他はない。軍人を裁くのは陸海軍の軍法会議であった。軍法会議の構成員は軍部大臣を筆頭に、全員が軍人である。法廷に軍の組織的な主張を反映させることは容易であった。

当時、陸軍部内には軍縮や不干渉主義を進めた政党への強い反感があった。五・一五事件で政党政治が中断したとはいえ、再び政党が復権する可能性が絶たれたわけではない。軍縮や農村の荒廃などの政治問題を被告に主張させ、政党政治の劣悪さを世間に広める。そのための舞台装置として、公判は軍の利益に沿うものであった。

先に示したように、被告やその主張には大衆の願うヒーローの像が投影されていたが、その像を提示したのは軍とメディアであった。メディアが軍に積極的に協力したのも、組織の論理であった。

それまで政党との関係が深かったメディアは、満州事変を境に、戦争報道などの便宜上から陸軍へ接近し、軍の批判を控え、軍の主張に好意的な報道を流した。

さらに地方社会における在郷軍人会などの親軍組織が活動を活性化させ、反軍的な新聞論調に威嚇や不買運動などで対抗した。在郷軍人会は、学校などの教育機関(教員の指導で児童生徒に嘆願書を書かせた)とあわせて、被告に対する減刑嘆願運動の一翼を担う存在となる。

陸軍と異なり、海軍の軍法会議は必ずしも被告に有利な場ではなかったが、すでに軽い量刑が出された陸軍側(求刑禁錮8年─判決同4年)と対照的に、主犯格の海軍青年将校へ死刑が求刑されたことで、世論は激烈にヒートアップする。

嘆願書は公判開始から2カ月ほどで約70万通を超え、1933年末までに約114万通に達したといわれる。世論の隆盛は海軍部内を動揺させ、最終的に有期刑への減刑が実施される。

このように嘆願運動には、利益政治批判の高まりの裏面として、清廉で大義に殉じる青年将校のイメージが作用した。その背景には、軍が政治的意図のために被告の主張を支援し、メディアが拡散する構図が存在した。

陸海軍も青年将校も歴史上の存在となった現代日本において、嘆願運動が当時の形で盛り上がることは無いだろう。ただもし被告の主張が一般に意義を広く認められ、それを支持拡散する組織やメディアが強力であればどうか。

私たちが今いかなる価値を重んじ、どのような社会を目指すのか。改めて一人一人に問われていると考えるべきだろう。


小山俊樹(Toshiki Koyama)
1976年生まれ。京都大学文学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門分野は日本近現代政治史。主な著書に『五・一五事件──海軍青年将校たちの「昭和維新」』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『憲政常道と政党政治』(思文閣出版)、『評伝 森恪』(ウェッジ)、『近代機密費史料集成Ⅰ・Ⅱ』(ゆまに書房)、『大学でまなぶ日本の歴史』(吉川弘文館、共編著)など。


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