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ラッシャー貴子|イギリス

黒澤映画の名作に英国らしさをやわらかく吹き込んだ『生きるLIVING』

ロンドンの駅に貼られた映画Livingのポスター。この映画の脚本は、英国の栄誉あるブッカー賞やノーベル文学賞を受賞しているカズオ・イシグロが手がけている。映画にまつわるインタビューを読んでいて、イシグロが英国人のユーモアのことを「娯楽でもあり、身を守るための手段でもある」と話していたことが印象に残った。辛い現状を見ないために笑って、それを心の支えにするというのだ。言われてみればそうかもしれない。これからの英国人観察に新しい視点が加わった。筆者撮影

 英国映画『生きる LIVING(原題Living)』がもうすぐ日本で公開される。タイトルからわかるとおり、黒澤明監督の名作『生きる』(1952年)のリメイク版だ。数日前に開かれた第95回アカデミー賞では受賞こそ逃したものの、主演男優賞と脚色賞の2部門でノミネートされて話題になっていた。ノミネートされた主演男優は英国を代表する俳優のひとりであるビル・ナイ、脚本家はノーベル文学賞を受賞している日系の英国人作家、カズオ・イシグロだ。

 昨年11月に封切られていた英国では、今はストリーミング配信で観られるけれど、一部ではまだ上映の続く映画館もある。わたしの周りでも評判は上々で、「しみじみとよかった」という感想をよく聞く。ほとんどが黒澤版を観ていない人たちだ。

 この作品は、戦後の日本という設定を1953年の英国ロンドンに移して、余命宣告を受けた公務員が人生を見つめ直す姿を描いている。最初に話を聞いた時には、国を変えて名作をリメイクするなんて難しいのでは? と思ったけれど、何の違和感もなく、すんなりストーリーに入り込むことができた。黒澤版の『生きる』も実はトルストイの短編小説の翻案だそうで、これは国が移っても描けるテーマなのだろう。

 ロンドンの映画館でこの映画を楽しんだ後、日本人としてはやっぱり原作を観てみたくなり、白黒作品の『生きる』を何十年かぶりに鑑賞した(今の時代、ありがたいことに海外からでもDVDは手に入るし、ストリーミングもある)。比べてみると、リメイク版には独自の構成や設定もあるとはいえ、原作にかなり忠実に作られていることがわかる。細かいモチーフがうまく英国のものに置き換えられていて感心する。ところどころに、はっとするほど原作と似たアングルのシーンがあって、黒澤作品への愛とリスペクトを感じた。

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今年1月と2月に英国映画協会(BFI)で開かれていた黒澤明特集の広告(バスにも大々的に広告が出されます)。英国でも黒澤明や小津安二郎の名前は知られていて、ロンドンではBFIがたびたび取り上げて上映している。と言っても、黒澤作品は『七人の侍』のような時代劇が中心で、『生きる』はそれほどは知られていなかったと思う。筆者撮影

 脚本のイシグロは、5歳の時に日本から英国に移住した。11歳か12歳の時に初めて『生きる』を観て以来、この映画は古きよきジェントルマンの姿が色濃く残っていた戦後のイングランドで再現できると考えるようになったそうだ。礼儀正しい人間関係やストイックな辛抱強さなど、確かに当時の両国に共通するものは多くありそうだ(わたし自身は本や映画でしか知らないけれど)。舞台を英国に移してもストーリーが自然に展開しているのは、日本と英国の両方を知るイシグロの力が大きいのかもしれない。

 リメイク版は、挿入歌もどことなく原作を思い起こさせる。黒澤作品では印象深いシーンで主人公が「命短し、恋せよ乙女」で始まる『ゴンドラの唄』を歌う。恋せよと前向きに促しながら、そうできなかった誰かを感じる、切ない歌詞だ。リメイク版で同じ場面に使われたのは、スコットランド民謡のThe Rowan Treeだ。Rowan(ヨーロッパナナカマド)は秋に南天のように赤い実を房状につける植物で、春に咲く白い花はユキヤナギに似てレースのように繊細だ。歌詞は四季を通じたナナカマドの美しさをひたすら讃え、後半で幼い日の父や母の思い出を語る。スコットランド民謡らしい郷愁漂うシンプルなメロディーとあいまって、美しさ、懐かしさ、切なさを感じさせ、『ゴンドラの唄』と重なる。

The Rowan Treeの歌。作品中では主演のビル・ナイが歌うこの歌は、ここではリサ・ナップという歌手が歌っている。この曲は特によく知られているわけではないけれど、シンプルで一度聴いたら歌えそうな親しみやすさだ。言葉を変えて何度も同じメロディーを繰り返すのも、『ゴンドラの唄』に似ている。

Profile

著者プロフィール
ラッシャー貴子

ロンドン在住15年目の英語翻訳者、英国旅行ライター。共訳書『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』、訳書『Why on Earth アイスランド縦断記』、翻訳協力『アメリカの大学生が学んでいる伝え方の教科書』、『英語はもっとイディオムで話そう』など。違う文化や人の暮らしに興味あり。世界中から人が集まるコスモポリタンなロンドンの風景や出会った人たち、英国らしさ、日本人として考えることなどを綴ります。

ブログ:ロンドン 2人暮らし

Twitter:@lonlonsmile

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