コラム

日銀の政策変更、YCCの事実上形骸化は金融緩和解除の最初の一歩

2023年08月01日(火)19時30分

実際には、日銀内部では、企業による賃上げや価格設定行動が変わるなど、インフレ期待の上昇が持続的・根強い動き、と前向きに認識されているとみられる。また、筆者自身も最近判断を変えたが、米国経済の下振れリスクが和らいだことで、日本経済で始まった好循環が続く、との認識が強まったのかもしれない。

そして、YCCを形骸化させて長期金利が0.3%前後上昇しても、インフレ期待の上昇で実質金利が大きく上昇しない、との判断に至ったとみられる。その上で、YCCはほぼ役割を終え、操作目標を短期金利に変更させるフェーズに移るべきと合意に至ったのだろう。

23年に入ってからの30年ぶりの賃上げや、株式市場の上昇など、日本経済が長期停滞から抜け出しつつあることは、これまでの金融緩和政策の成果である。インフレ上昇に応じて、金融緩和を緩めるのは必要な対応である。ただ、米国など海外経済の下振れリスクを見定めて、始まったばかりのインフレと経済成長の好循環が2年にわたり続く状況で、金融緩和を緩める対応をより慎重に始めるのが、望ましい対応だったのではないか。日本経済は緩やかな成長が続いており、コロナ禍直後の米国のような経済過熱状態にはかなり距離がある。

また、今回の政策変更の判断には、YCCが為替市場の変動を広げた事が、政策変更の一因になったとみられる。記者会見で、植田総裁は、今回の政策判断において、為替市場のボラティリティを抑制することに直接言及した。黒田前総裁であれば、こうした考えは示すことはなかっただろう。金融緩和によって円安が続くことは、日本経済の正常化を後押する点を重視していたからである。植田総裁率いる現執行部は、黒田前総裁らとやや異なる反応関数を持っていると推察される。この点において、日銀が今後も金融緩和を徹底することで、日本経済の好循環を定着させるかという点で、筆者はやや不安を感じている。

YCC形骸化で、金融市場はどう動くか

今回のYCC形骸化という日銀の引締め政策の開始で、金融市場はどう動くか。植田日銀は、筆者の想定よりもやや早く緩和修正を開始したが、賃金上昇を伴いながら2%インフレ実現を目指す、日本銀行の政策姿勢は大きくは変わらないとみられる。植田総裁が就任時に掲げた、黒田総裁の後を継いで、「物価安定の総仕上げをする」との表明は政府との約束である。2000年から2012年までの日本経済は引締め政策や金融緩和が不十分だったため景気後退になるとデフレに陥っていたが、この時期の政策ミスを今後も日銀は反面教師にするとみられる。次の引締め政策になるだろう短期金利の引き上げには、より慎重に判断を行うだろう。

リスクは、今回の政策判断に際して、為替市場の変動が変数になっていることを明示したことだろう。YCC修正を巡り直後に乱高下したドル円は、会合後の週明けも、大きな変動は見られていない。ただ、今回為替変動を強く抑制する考えを植田総裁が明確に示したことは、円安期待が強まっていた為替市場に大きな影響を及ぼすのではないか。

FRB(米連邦準備理事会)による利上げが最終局面に入りつつある中で、2024年にかけてこれまでの円安基調が転換点を迎える可能性が高まっている。今後進むとみられる円高(=円安修正)が、2%インフレ実現の逆風になるだろう。この為、日銀が次の引き締めに踏み出す時期は、植田総裁らが想定しているよりも後ずれする可能性が高まった、と筆者は考えている。

(本稿で示された内容や意見は筆者個人によるもので、所属する機関の見解を示すものではありません)

プロフィール

村上尚己

アセットマネジメントOne シニアエコノミスト。東京大学経済学部卒業。シンクタンク、証券会社、資産運用会社で国内外の経済・金融市場の分析に20年以上従事。2003年からゴールドマン・サックス証券でエコノミストとして日本経済の予測全般を担当、2008年マネックス証券 チーフエコノミスト、2014年アライアンスバーンスタン マーケットストラテジスト。2019年4月から現職。著書「日本の正しい未来」講談社α新書、など多数。

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