コラム

19世紀イタリア、全世界を巻き込んだ論争『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』

2024年04月25日(木)18時25分

この短いプロローグは、洗礼につながるきっかけを示唆しているが、それ以外にもいくらか補足しておくことでその後のドラマがより印象深くなる要素が見られる。

教皇領とはいうものの、この時点でも統治は揺らぎつつあった。ピウス9世は、1848年にはボローニャの市民暴動の脅威に直面し、ローマから逃避することを余儀なくされた。教皇の頼みの綱は、オーストリアやフランスなどのカトリック勢力だった。


「自立できないほど脆弱なボローニャの教皇統治だが、当面は大規模なオーストリア軍の恒久的な駐留と弾圧による支配で保護されることになった」(前掲同書より引用)

ということで、短いプロローグでは、アンナ・モリージが、ボローニャに駐留するオーストリア軍の兵士と関係を持っていたことを示唆している。

さらに、モルターラ家の生活もこの駐留と無関係ではない。一家は治安が回復したことで1850年にボローニャに引っ越してきて、そこでエドガルドが生まれた。そのボローニャには、何世紀にもわたってユダヤ人が閉め出されていた歴史があったため、そこに暮らすユダヤ人は注目を浴びることを望まず、シナゴーグも持たず、ラビもいなかった。

誘拐事件への教皇の対応と市民の蜂起の関わり

そうしたことを踏まえると、本作でまず際立つのが、エドガルドの父モモロと教皇ピウス9世のコントラストだ。

ボローニャにはシナゴーグがないため、モモロの一家はいつも家で祈り、信仰が父親から子供たちに引き継がれる。そんな目立たない生活がつづくはずだったが、エドガルドが誘拐されたことで、モモロの立場は激変する。

エドガルドを取り戻すためには、ユダヤ人のコミュニティに頼り、抗議の声を上げるしかないが、その活動は思わぬ方向に波及する。国家統一を目指す自由主義者、教皇統治に反対する人々にとって、エドガルドの誘拐は、願ってもない攻撃材料になったからだ。

一方、教皇は、世界に流布する非難の記事や風刺画を見ても、銀行家のロスチャイルドから苦情が来ても、ナポレオン3世が遺憾の意を示しても、ボストンでユダヤ教徒の役者たちによって、教皇に割礼を施す舞台が上演されても、不安を押し隠し、頑なに返還を拒みつづける。だがその足元では、世俗的な君主、臣民の統治者としての教皇の立場は、確実に崩れつつある。

エドガルドが誘拐された翌年の1859年、(映画では触れられないが)駐留していたオーストリア軍が撤退し、教皇政府に対して市民が蜂起し、ボローニャが解放され、教皇は地上の王国の大半を失う。

誘拐事件への教皇の対応が、この蜂起に大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろうが、エドガルドの父親モモロの視点から見ると、そこには皮肉がある。

モモロにとっては、すべてが息子を取り戻すための行動だったが、結果としてそれが教皇をエドガルドに近づけることになったともとれる。孤立する教皇は、エドガルドに慰めを見出し、エドガルドも教会に愛着を持ち、教皇を父親と見るようになっていった。

大きく動いた歴史が異なる視点から見直される

そしてもうひとつ見逃せないのが、エドガルドの母親マリアンナの存在だ。ベロッキオは彼女を、他の登場人物との間に一線を引くかのような位置づけで描いている。彼女はエドガルドを取り戻すには、実力行使しかないと考え、文書で抗議するモモロに、それが何の役に立つのかと不満をもらす。

おそらくマリアンナには、結果が見えていたのだろう。本作の終盤では、絶望を抱えた彼女と成長したエドガルドの間の深い溝に焦点が合わされ、大きく動いた歴史が異なる視点から見直されることになる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 3

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 4

    存在するはずのない系外惑星「ハルラ」をめぐる謎、…

  • 5

    「円安を憂う声」は早晩消えていく

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    中国のホテルで「麻酔」を打たれ、体を「ギプスで固…

  • 9

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 10

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 9

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story