コラム

ブラック・ユーモアを忘れた日本は付き合いにくい

2019年02月15日(金)17時01分

『セロトニン』の主人公の名前は私と同じフローランです。ウエルベックの小説によく描かれている、虚脱状態に陥った中流階級の中年男です。最近フランスで抗議デモを繰り返している「黄色いベスト」たちほど生活は苦しくないが、現代社会に希望を失った負け犬です。その彼と2年間同居しているパートナーが「柚子(ゆず)」という、可愛くて、決定的にスノッブな日本女性です。遊び人の柚子の本当の姿の前に吐き気がするフローラン、鈍感で情けないフローランに飽き飽きしている柚子、二人は互いに互いが耐えられず、最悪な日々が描かれています。

小説の前半はその日仏カップルを対象にしたブラック・コメディーです。途中でフローランはフランス女性の元カノを懐かしく思い、柚子はフローランに対し徹底的な冷戦を仕掛けます。出来れば殺し合いたいが、刑務所に行きたくないので、距離をとるのみです。ウエルベックらしく、タブーのない、冷酷な書き方です。18歳未満の好青年には読ませたくない、ショッキングなシーンの連続です。

国際社会からも孤立しかねない

誤解してほしくないのです。これは、ソフィア・コッポラ監督作品『ロスト・イン・トランスレーション』のように日本社会全体をあざ笑う小説ではありません。柚子のキャラクターはグロテスクかもしれませんが、ウエルベック氏は人種差別主義者ではありません。客観的に読めば、フローランも柚子も、失笑するしかない可哀相な人間なのです。彼らはこの本のテーマではなく、先進国社会の滅亡が大きなテーマなのです。そして、村上春樹の強みが鮮やかな空想力だとすれば、ウエルベックは鋭い風刺力と不条理のユーモアで現代社会とその人間たちを描写する鬼才なのです。

この本が日仏関係にとって危険なのは、最近の日仏関係がよくないせいだけではなく、そもそも日本人が風刺の心を忘れてしまったせいです。そしてそれは、フランス人との関係に限らず、国際社会から孤立する原因にもなりうるのです。危機感を抱いたほうがいいと思います。

欧州には、ウエルベックの人気が高いフランスやドイツを筆頭に、厳しい風刺の文化があるため、キツい表現も読者の笑いを誘います。北野武の映画作品のシュールな暴力が欧州で人気なのも同じ理由です。

では、それに近いジャンルで大勢のフランス人に愛読されてきた週刊誌『シャルリー・エブド』を覚えていますか。数年前にパリでその編集者たちがIS(イスラム国)に虐殺されるテロ事件がありました。あの時、イスラムの神の風刺画を遠慮せずに描いた「シャルリー」に対し、日本の世論は多くが批判的でした。際どい社会風刺の文化が日本から消えたのでしょうか。

プロフィール

フローラン・ダバディ

1974年、パリ生まれ。1998年、映画雑誌『プレミア』の編集者として来日。'99~'02年、サッカー日本代表トゥルシエ監督の通訳兼アシスタントを務める。現在はスポーツキャスターやフランス文化イベントの制作に関わる。

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